神経系の"アルゴリズム"

katsumushi
「なんである」から「どうである」に変換する神経系での“アルゴリズム”がどうなっているか。 http://twitter.com/katsumushi/statuses/802973413
katsumushi
記述→規範、宣言的→手続き的とは、視覚的→聴覚的あるいは空間的→時間的と同じ気がしている。前にも思ったことなんだが。臆見だけど神経系ではモダリティの違いとして表現されうるのではないかなとか思っている。 http://twitter.com/katsumushi/statuses/803103448
katsumushi
人間中心主義を脱却して進化のスケールの中でこれらが神経系でいかにして表現しうるか。これは僕一人でできる仕事ではないのだけれども。 http://twitter.com/katsumushi/statuses/803104235
katsumushi
偶然(ノイズ)をいかにして飼いならしているか、という意味では神経系(あるいは生物まで広げていいと思うが)というシステムにかなうものはない。 http://swingybrain.blogspot.com/2008/04/blog-post_26.html http://twitter.com/katsumushi/statuses/803107400
katsumushi
記憶を宣言的記憶と手続き的記憶と並列して分けて考えられているが、記憶は「なんである」のほうでそれが“行動として”現出するときに、空間的な情報が時間的な情報に変換されているはずだ。 http://twitter.com/katsumushi/statuses/803119938
katsumushi
つまり、記憶として宣言、手続きというのではなくて、“宣言が手続き化する”という仕方で行動に変化が現れる。もちろん、逆の流れもあるはずで、同じ神経回路網を使っているかどうか。 http://twitter.com/katsumushi/statuses/803121148
katsumushi
感覚器官と運動器官を分けて考えるのが通例だけれども、運動器官にも感覚器官があるし、感覚器官の中枢では随伴性の運動信号が来ているので、分けて考えているのは、実は主観・客観イデオロギーのせいだと思う。 http://twitter.com/katsumushi/statuses/803122291
katsumushi
主観・客観の図式で神経解剖学も成立している。記述するにはこの図式を使うのが都合がいい。広松渉先生の言葉を借りればそれはこの図式が共同主観化されているからだ。 http://twitter.com/katsumushi/statuses/803123249